大鹿村中央構造線博物館



「南アルプスジオパーク」で見られる地球の営み

南アルプス(中央構造線エリア)ジオパークは、南アルプスの長野県側の地域です。中央構造線が掘り下げられた谷を境に、主稜線の赤石山脈地域と前山の伊那山地地域に分けられます。

 

赤石山脈の岩石は、海洋プレートの玄武岩の地殻や、遠洋で堆積したプランクトンの殻や、海溝に堆積した泥や砂が、プレートが沈み込む時に剥ぎ取られて大陸側に付け加わった付加体(ふかたい)でできています。

 

アジア大陸の縁に約3億年前から成長した付加体が、日本列島の大部分の土台になりました。赤石山脈の長野県側は、2億年前~1億年前に付加した付加体からできています。

 

緑色岩は、中央海嶺や火山島で湧き出して昔の太平洋の底を造った玄武岩です。熱いうちに海水のH2Oと化学反応を起こして水を含む変質鉱物が生じ、さらに海溝から沈み込んだ先で変成作用を受けて、緑色の変成鉱物が生じた岩石です。

 

石灰岩は、南の島のサンゴ礁や、石灰質の殻をもつ微細なプランクトンの死骸が海底にたまったものです。

 

チャートは、石英質の殻をもつプランクトンの死骸が深い海底にたまったものです。酸化鉄がわずかに混ざったものは、赤く染まっています。

 

沈み込み口の海溝には,海底土石流で運ばれた泥や砂がたまります。

 

 

富士見町と伊那市にまたがる入笠(にゅうがさ)山や入笠牧場では、遠くの海から運ばれてきた海洋玄武岩(緑色岩)やチャートが見られます

 

伊那市の戸台(とだい)から北沢峠を越えて山梨県側の広河原に通じる南アルプス林道は、一般車は通行できません。伊那市営の乗り合いバスの車窓から、南の海から運ばれてきた石灰岩の幕岩(まくいわ)が良く見えます。

赤石山脈北部の付加体は、約1500万年前から始まった伊豆‐小笠原列島の衝突でまくれ上がりました。幕岩も南アルプス林道から見て左回りに回転して立ち上がっています。

 

南アルプス林道は、1億年前の付加体と2億年前の付加体の境界である仏像(ぶつぞう)構造線を横切ります。仏像(ぶつぞう)構造線は関東山地から沖縄本島へ続いています。「仏像」は、高知県土佐市にある集落の名前です。

 

標高3033mの仙丈ケ岳は海溝堆積物の泥岩と砂岩、標高3047mの塩見岳は海洋地殻の海洋玄武岩(緑色岩)とチャートでできています。

 

塩見岳頂上直下の海洋玄武岩(緑色岩)。1億年前に沈み込んだ海洋プレートの表面を覆っていた玄武岩で,誕生したときに熱いうちに海水と反応して緑色の鉱物ができているので,緑色岩と言います。

 

塩見岳頂上直下の赤色チャート。赤石山脈という名前のもとになった岩石です。石英質の殻を作る放散虫というプランクトンの死骸からできていて,もとは無色透明ですが,微量の酸化鉄が混じって赤く染まりました。

 

大鹿村の鳥倉(とりくら)林道終点の豊口(とよぐち)登山口には石灰岩が良く露出しています。登山口には、塩見岳頂上までの登山道沿いの岩石の解説看板があります。

 

鳥倉林道の夕立神(ゆうだちかみ)展望台がある鳥倉山は、ジュラ紀の太平洋にあった「みかぶ海台(かいだい)」と名付けられた巨大な熔岩台地が付加した海洋玄武岩(緑色岩)でできています。

 

「みかぶ海台」をつくったマグマだまりの底に重い鉱物がたまってできたかんらん岩が、長谷(はせ)の鷹岩から地蔵峠にかけて露出しています。かんらん岩が変質した蛇紋岩は地すべりや崩落の原因になります。

 

プレート沈み込み帯では,大陸プレートの下に沈み込んだ海洋プレートが深さ100km以上沈み込んだ付近で,その上の大陸側のマントルが融け,マグマが発生します。

 

9500万年~8500万年前にアジア大陸の内陸で固まった花崗岩が伊那山地を造っています。

 

伊那山地,小嵐(こあらし)林道の花崗岩。

 

遠山川下流の花崗岩。

 

海洋プレート沈み込み帯では,内陸の火山帯の下に高い温度で鉱物が変化した変成岩である片麻岩ができます。沈み込み口に近い大陸の縁では低い温度で高い圧力を受け,板を重ねたような結晶片岩ができます。

 

結晶片岩はもとの岩石のちがいにより見かけも異なり,海洋玄武岩(緑色岩)が変成した緑色片岩,泥岩が変成した泥質片岩(黒色片岩),チャートが変成した石英片岩,石灰岩が変成した石灰片岩などがあります。

 

中央構造線は,もともと海溝に平行に離れてできた変成帯を出会わせた断層です。

 

中央構造線板山露頭は,地区の住民が整備しています。

 

伊那市長谷の溝口露頭は,高温低圧型の変成岩と低温高圧型の変成岩が破砕された岩石が接し,間に岩脈が入っています。

 

大鹿村鹿塩の北川露頭と安康露頭は2013年に国天然記念物に指定されました。北川露頭は,花崗岩と緑色片岩が破砕された岩石が接していて分かりやすいのですが,崩れやすく,現在は崩れ落ちた岩片で露頭面が覆われています。それでも破片どうしの色合いが異なるので、異なる地質が接している様子を感じることができます。露頭面を剥ぎ取った実物標本を大鹿村中央構造線博物館で保存・展示しているので、合わせてご覧ください。

 

大鹿村大河原の城の腰(じょうのこし)露頭は,地主の方が掘り出した露頭です。

 

大鹿村大河原の地蔵峠登り口の安康(あんこう)露頭は,2006年7月19日の大水で,下流の堰堤の影響で川底が上がり,下半分が見えなくなりました。国土交通省のご協力で露頭面に付着した砂礫を取り除きました(掲載画像)。その後、2010年の大水で河床礫が流され、露頭の下部もよく露出しました。その後も河床の多少の上下がありますが、よく見える状態が続いています。

 

飯田市南信濃の青崩(あおくすれ)峠露頭はまだ整備されていません。

 

断層帯は,深くなるほど幅が広がり,岩石の変形のしかたも変わっていきます。南アルプスの中央構造線の伊那山地側には,約9000万年~7000万年前に,地震を起こさない断層最深部で延びるように変形したマイロナイトという岩石が露出しています。

 

高森山林道ルートでは,マイロナイトをはじめ,断層のいろいろな深さで変形した岩石が見られます。1961年(昭和36年)には,梅雨の集中豪雨で大西山山腹のマイロナイトが大崩壊し,その一部が対岸の集落を襲って大きな災害になりました。

 

固いマイロナイトは,岩壁をつくります,

 

伊那市長谷地区には,三峰川の支流黒川の上流で,中生代白亜紀の比較的浅い海底で堆積した戸台層という地層から海の生物の化石がたくさん産出します。サンカクガイ(三角貝)やクルミガイの仲間を含む二枚貝類と押し潰され変形したアンモナイトなどの頭足類と,ウニやウミユリなどの棘皮動物,サンゴなどの腔腸動物,シダ・アマモなどの植物化石がたくさん産出しています。これらを総称して,「戸台の化石」と呼んでいます。とくに,サンカクガイの産出は100年以上前から記録にも残されています。

「戸台の化石」保存会では貴重な教育資源の保存のため,1986年以来60回以上の学習会を重ね,2006年初めに長谷公民館と併設の形で化石収蔵施設も完成しました。今後は,収蔵施設を基地として,化石試料を保存したり,産出するさまざまな化石や化石を産出する岩石やその周辺に分布するその他のいろいろな岩石についても学習したり,この沢山産出する「戸台の化石」の保存活動を,さらに恒久的に継続していくことを新たな目標としています。

 

戸台層の礫岩には,花崗岩礫を含むものがあります。礫岩が露出する高座岩は室町時代の高僧が修行した場所として信仰の対象になっています。白亜紀前期の戸台層は,北東に分布する新第三紀の甲斐駒ケ岳の花崗岩や中央構造線の西側に広く分布する領家白亜紀後期の花崗岩より古く,この花崗岩礫がどこから来たかまだ解明されていません。飯田市南信濃のヒョー越には,古生代末の花崗岩の小岩体があり,北上山地や大分県臼杵に年代と成分が同じ花崗岩が見つかっています。戸台層を含む戸台構造帯は、両側の付加体起源の岩石からなる秩父帯や三波川変成帯と異なり、大陸プレートの花崗岩や大陸プレート上の浅い海に堆積した岩石から構成されています。いずれかの大陸の破片が、両側の断層によって挟み込まれたと考えられます。

 

今の南アルプスの地形を造っている激しい隆起は100万年前から始まったことが,大井川下流の遠州灘に礫が堆積しはじめた年代から推定されています。

この図は,100年前と現在の一等水準点の標高を比較して得られた100年間の隆起量または沈降量を示しています。南アルプスの隆起は今も進行中で,飯田市南信濃木沢の一等水準点は100年間に40cmの上昇しました。赤石山脈主稜線の上昇速度はそれを上回ると考えられます。

(注)一等水準線は主な街道沿いに設置されたため,高山の山頂には一等水準点はありません。南アルプスは,稜線のデータはありませんが,飯田~遠山~天竜二俣~掛川を秋葉街道沿いに通る水準線が山地内部を通るため,図に隆起が現れています。北アルプスは山地内を通る一等水準線が無いため,図に隆起が現れていません。したがって南アルプスが急速に隆起していることは分かりますが,他の山地と比べてとくに隆起が速いかどうかの比較は,この図ではできません。

 

隆起するほど侵食も激しくなります。中央構造線の破砕帯が下刻され,谷底に向かって両側の斜面が崩れて一直線のV字谷が掘り込まれていきます。この谷で,南アルプスの長野県側は赤石山脈と前山の伊那山地に隔てられています。1961年(昭和36年)には大鹿村大河原の伊那山地側の斜面が大きく崩れ,その一部が川の礫と水田の泥とともに対岸の集落まで押し寄せて死者42名を含む大きな災害になりました。

 

中世~江戸時代の秋葉街道は,今の国道が通る谷底ではなく,中央構造線の断層鞍部列を縫うように通じていました。

 

小渋断層は中央構造線から斜めに分岐して赤石岳の麓へ続いています。小渋断層が下刻された一直線の谷とおしに標高3120mの赤石岳がよく見えます。

 

遠山川の川底に埋没林が露出しています。7点の埋没ヒノキが年輪年代法で調べられ,樹皮のついたヒノキから西暦714年に枯死したことが判明しました。南信濃自治振興センターに,この年代決定されたヒノキの巨木や,せき止め堆積物とダム湖堆積物のはぎ取り資料などが展示され,パネルで年輪年代法のしくみ,遠江地震をきっかけにおこった遠山大地変などが分かりやすく紹介されています。

 

日本列島では,同じ大地の営みが災害にもなり恵みにもなります。中央構造線の東側の赤石山脈側は三波川変成岩という地すべりを起こしやすい岩石でできていて,緩やかな斜面が造られています。高所の南向きの地すべり跡地に古くから集落が発達しています。

 

隆起が激しい地域では,河川の下方侵食によって川はV字形となり,尾根は緩傾斜となります。飯田市上村下栗から南信濃上中根にかけて,遠山川と上村川に挟まれた尾根の標高900m~1100mの区間には、緩やかな傾斜地が発達し、この地形をうまく利用して山の生活が営まれています。

 

山は高くなれば,河川の侵食がすすみ,尾根は重力的に不安定になります。そのため,尾根は内部に“ずり落ちる滑り面”を伴って潰れていきます。滑り面が地表に顔を出したところには線状凹地ができます。上河内岳南方の線状凹地は,規模が大きく二重山稜になっています。

 

飯田市上村しらびそ高原の南部に,御池山(1905m)があります。この三角点を含んだ尾根筋を地図でたどると,東へ開いたきれいな円弧ができます。この円弧状の地形は,直径800mほどの隕石クレーターだと考えられています。現在は,全体の1/3しか残っていません。