原田豊吉と「鹿塩片麻岩(マイロナイト)」
原田豊吉
原田豊吉は1860年生まれ。ドイツに留学し、1884年に帰国。1885年に地質調査所に入所。1886年には、東京帝国大学地質学の最初の日本人教授になりました。(濱田隆士『日本列島の地球科学』放送大学(1995))
ナウマンは、東北日本と西南日本はもともと一体の島弧と考え、「七島弧(伊豆-小笠原弧)」との衝突部分が裂けて、フォッサマグナ地域が陥没するとともに、赤石山脈と関東山地の「ハ」の字屈曲が生じたと考えました。それにたいし原田は、「南弧(おおむね西南日本弧)」と「北弧(おおむね東北日本弧)」とは、もともとは別の島弧で、両者が衝突したために、南弧東端の赤石山脈と、北弧西端の関東山地が押し合って曲がり、「ハ」の字屈曲が生じたと考えました。これは「ナウマンVs.原田論争」として有名です。
いまでは、赤石山脈の岩石と関東山地の岩石は連続していて、ひとつながりにつくられたことが分かっています。関東-赤石の地質の「ハ」の字屈曲は、新第三紀に西南日本が時計まわりに回転して背後に日本海が開いていったときに、西南日本が当時の伊豆-小笠原弧先端の櫛形地塊と衝突したためと考えられています。また現在の関東山地と赤石山脈の隆起は、おもに伊豆半島の衝突によるものです。したがって、ナウマンの考えが正しかったことになります。
一方、原田が中心になって1890年に地質調査所から300万分の1日本列島地質図(地体構造図)を発行しています。これはナウマンのものよりも細部まで正確です。原田は、地質体に名前をつけています。たとえば秩父古生層(1899年命名)や領家帯(1890年命名)は原田によります。
鹿塩片麻岩
原田は、1890年に、領家帯の中央構造線沿いに見られる、角閃石をふくみ斑晶に富む縞状の岩石を、凝灰岩質の片麻岩と考え、大鹿村の地名をとって「鹿塩片麻岩」と名づけました。
原田の鹿塩片麻岩?(小渋川→天竜川を流れて飯田市まで流れ着いた縞状角閃石黒雲母花崗閃緑岩源マイロナイト。マイロナイトは硬い岩石。)
原田の「鹿塩片麻岩」は、いまからみれば、領家最古期花崗岩である非持(ひじ)タイプの、角閃石をふくむ縞状の花崗閃緑岩が、断層深部で延びるように変形したマイロナイトで、微細な黒雲母が変質して緑泥石に変わって淡緑色を帯びたものだと思われます。当時は、断層運動により変形したマイロナイトという岩石の概念が1885年にイギリスで提唱されたばかりで、まだ一般的にはなっていなかった時代です。しかし原田は、この岩石を特別な特徴があると考えて「鹿塩片麻岩」と名づけたのでしょう。
鹿塩マイロナイト
1935年に、東京高等師範学校教授だった杉健一は、高遠地域の鹿塩片麻岩について顕微鏡観察による研究をおこない、以前から論争があった鹿塩片麻岩のでき方について、断層の運動によりつくられたマイロナイト(ミロナイト)であると結論しました。当時は、マイロナイトは断層の運動により機械的にすりつぶされた岩石だと考えられていました。
鹿塩時階
1941年に、東京帝国大学の小林貞一は、鹿塩マイロナイトをつくった断層活動を、中央構造線の最古期の活動と考え、中央構造線の「鹿塩時階」の活動と名づけました。小林は、中央構造線のおもな活動として、鹿塩時階のほか、市ノ川時階、砥部時階、菖蒲谷時階を提唱しました。小林は、鹿塩時階を白亜紀初期~中期と考えました。
延性断層岩としての鹿塩マイロナイト
1970年代から、鉱物の結晶レベルの変形メカニズムについての研究が進み、それまで機械的な圧砕によりつくられたと考えられてきたマイロナイトは、断層深部の地温が高い場所で、「焼きなまし(再結晶)」が働くことにより、壊れることなく、ゆっくりと変形した岩石であることが分かりました。したがって、 マイロナイトを「圧砕岩」と呼ぶのは不適当です。
非持タイプ縞状花崗閃緑岩を原岩とするマイロナイト(大鹿村鹿塩北川)
鉱物が、焼きなまされながら、ゆっくりとずれ変形していく場合、鉱物結晶は多結晶集合体に変わっていきます。焼きなましが効きだす温度は鉱物の種類によってちがいます。深さ15kmで地温350℃ていどでは、石英と黒雲母は完全に多結晶細粒化しますが、長石の一部は、もとの結晶のまま残ります。もともと大きめの鉱物結晶でできている花崗岩の場合は、長石が白い斑点として残ったマイロナイトができます。
領家変成帯の中央構造線沿いのマイロナイトには、領家花崗岩最古期の非持タイプを原岩とするものだけでなく、他の古期花崗岩や領家変成岩を原岩とするものも含まれます。もともと細粒の変成岩を原岩とするマイロナイトは、花崗岩類を原岩とするマイロナイトと、見かけが大きくちがっています。 これらの岩石のマイロナイト化の時期は、白亜紀後期と考えられています。
大鹿地域では、マイロナイト帯は地質境界としての中央構造線に切られています。水窪では、マイロナイト化が最も強い地帯は、中央構造線沿いではなく、領家変成帯の内部にあります。中央構造線沿いに露出しているマイロナイトは、地質境界としての中央構造線より前の断層運動によるものと考えられます。
これらのマイロナイトにみられるせん断面(マイロナイト帯では、断層面にかなりの幅があります)が、はじめは寝ていたという考えが最近は有力です。はじめに立っていたとすると断層運動は左横ずれ、はじめに寝ていたとすると断層運動は上盤側南西移動(下盤側北東移動)です。
マイロナイトが破砕されたカタクレーサイト(破砕岩)
マイロナイトは、細粒緻密な基質をもった岩石です。いままで「圧砕岩」と記されてきた岩石の多くは、マイロナイトが地温が低い中深部へ上昇し、再び断層運動を受け、砕かれて再固結した「カタクレーサイト(破砕岩)」です。
マイロナイトを原岩とするカタクレーサイト(大鹿村鹿塩北川高森山林道観察ルートNo.3露頭)
カタクレーサイトは深さ10kmていどの、地温は高くないが圧力は高い領域でできます。低温での脆性(ぜいせい)変形により、岩石は砕かれていますが、高い圧力のため固結した岩石になっています。このカタクレーサイトでは、破砕された岩片は回転していますが、それぞれの岩片の内部にはマイロナイトの組織(小構造)が残っていて、もとは地温が高い断層深部で変形したマイロナイトだったことが分かります。この岩石の場合、マイロナイトのもとの岩石は花崗岩だったと考えられます。
カタクレーサイト化の断層運動の時期は、もとのマイロナイトがつくられた断層運動よりも、のちの時代になります。
文献
高木秀雄(1993) 『中央構造線とマイロナイト』大鹿村中央構造線博物館講演記録