大鹿村中央構造線博物館



和泉層群

和泉層群ってなに?

紀伊半島西部から西では、中央構造線沿いの内帯側の幅10kmほどは、「和泉(いずみ)層群」が領家変成帯を覆っています。

和泉層群は、白亜紀の左横ずれ断層運動にともない、溝のように落ち込んでできた海にたまった地層です。アンモナイトや二枚貝の化石が知られています。おもに砂岩と泥岩の互層で、ところどころに凝灰岩層をはさんでいます。

そのため、紀伊半島西部から西では、中央構造線は和泉層群と三波川帯の境界断層になっています。

和泉層群の砂岩泥岩

多奈川~加太海岸(大阪府・和歌山県)


和泉層群の砂岩泥岩互層(多奈川小島)


「鬼の洗濯板」(多奈川小島)


友が島(加太ノ瀬戸) 
海岸のれきのほとんどは、和泉層群の砂岩。花崗岩れきと、真っ白な凝灰岩れきが少しみられます。紀淡海峡の友が島は和泉層群の島。和泉層群は、淡路島南岸~鳴門~阿讃山地~四国西部まで続いています。大分の大野川層群が和泉層群の西端だという考えもあります。


凝灰岩(加太深山湾) 
左側の白い地層が凝灰岩層。

和歌山城の和泉砂岩


和歌山城の城壁増設部分(内帯の和泉砂岩) 

和歌山城は、三波川変成岩の小山に築かれ、豊臣秀長時代の城壁は、すべて現地の三波川変成岩(おもに緑色片岩)が使われています。しかし浅野氏の時代になって増設・改修された部分は、友ヶ島の砂岩が使われています。浅野時代の石材には刻印が彫られています。紀伊徳川家時代には花崗岩が使われています。

淡路諭鶴羽(ゆずるは)山地


南あわじ市福良港の和泉層群 
この地層は、上下が逆転しています。

鳴門撫養石


徳島城の城壁(内帯の和泉砂岩で補強した部分) 
徳島城は三波川変成岩の小山の上に築かれ、城壁の石はすべて三波川変成岩(おもに緑色片岩)です。しかし、 最近城壁が崩れたのか、蛇かごで補強された部分があり、蛇かごの詰め石は、吉野川対岸の内帯側の和泉層群の 砂岩が使われています。鳴門の和泉砂岩は、撫養(むや)石とよばれ、建築材として利用されています。

 

⇒「日本列島の土台は「付加体」の岩石」へ進む

⇒「中央構造線ってなに」TOPに戻る